ジョン・ケージの沈黙と、現代のストリート。私がピアノの音に『祈り』を求める理由

一歩踏み出せば、音の粒子が支配する聖域へ。舞台袖から見つめる、沈黙を纏った一台のグランドピアノ
 
朝霞市・新座市境界のSUMIピアノ教室です。当教室の詳細はこちらのHOME
 
最近、街のあちこちで見かけるようになったストリートピアノ。音楽が身近になるのは素敵なことかもしれません。しかし、一人の演奏家として、その「雑踏」の中に身を置いたとき、私は言葉にできない違和感を覚えずにはいられませんでした。


ピアノという楽器は、単に鍵盤を叩いて音を出すものではありません。指先から伝わる繊細なタッチ、ペダルの踏み込み、そして空間に放たれる「音の粒子」。それらが重なり合い、無限の色彩となって響きを作ります。

しかし、周囲のざわめきや喧騒という「ノイズ」が混じった瞬間、その微細な色彩は、まるで水面に落とした一滴の絵の具が濁流に呑み込まれるように、一瞬で形を失ってしまうのです。
 
ジョン・ケージは、かつて周囲のノイズそのものを音楽として捉え、沈黙の中に響く「環境音」の価値を提示しました。街の人々が足を止め、思い思いに音楽を楽しむ―その「場」が生み出す文化的な高揚感や、コンセプトそのものを私は否定するつもりはありません。
しかし、そこに「演奏家としての祈り」が不在であるとき、違和感は拭えなくなります。
 
昨今のストリートピアノで見かける、技術を誇示し、承認欲求を満たすためだけの「ガチャ弾き」。そこには、音の粒子が本来持つ色彩や、沈黙が孕むはずの思索が置き去りにされています。ケージが愛したノイズは、もっと純粋で、生命に根ざしたものではなかったでしょうか。
道具として消費されるピアノの音ではなく、静寂と対話しながら紡ぎ出される一音を、私は大切にしたい。ノイズを音楽として受け入れる懐の深さと、ノイズに決して侵されてはならない聖域としての「響き」。その両方を知ることこそが、本当の意味でピアノと向き合うということだと考えています。
 
だからこそ、私は「場所」にこだわりたい。

朝霞市・新座市境界の静かな環境の中で、余計なノイズを削ぎ落とし、自分の出す音の粒一つひとつと対話する。そんな贅沢な時間を、門下生の方々に手渡していきたいと考えています。本当の「響き」を知ることは、人生をより豊かに聴き分ける力に繋がると信じているからです。
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